1927年11月10日、答礼人形は横浜港から天洋丸で「親善大使」としてサンフランシスコをめざしました。カリフォルニア州には、当時日本から移民した人々がたくさん住んでいましたので、彼らから熱烈な歓迎を受けました。そこから答礼人形たちは分散され、500近いアメリカ各地の歓迎会に出席し、親善訪問の旅をはたしました。この人形使節は、アメリカそして日本でも、子どもたちがお互いの国のことを学ぶ貴重な機会となりました。
しかしながら親善人形の願いも、残念なことに1941年(昭和16年)日米開戦によって断ち切られました。「青い目の人形」は敵国の人形とみなされ、多くの人形が処分されました。
現在これらの親善人形は、日本では各地の小学校などに青い目の人形が約300体、アメリカでは各地の博物館などに答礼人形が44体保管されています。